第1436号
2013年8月10日・20日(合併号)発行
「マクロス」
『祈り』はどこにあるのか
―平和主義の浸透力―
ヒーロー必勝型、地球人(アメリカ人)が最後は力で勝利するパターンのSF映画は、アメリカの「伝統芸能」の感がある。「宇宙戦争」から「スターウォーズ」に至るまで、宇宙からの侵略者、悪の帝国、凶暴な異生物は不可欠の「助演者」だ。異星人との共生や人類の自己破局、個人の内面などをテーマにしたものもあるが、前者の人気は不動だ。ところが日本のアニメには、このハリウッド・タイプにはあり得ない特異現象がある。
わが国では、侵略者が地球でほのぼのと生活を送っている。例えば、カエル似の異星人がプラモデルに夢中になって、少年らと暮らす「ケロロ軍曹」。人類征服をめざしてやって来たのに、なぜか「海の家」で働く「侵略!?イカ娘」。「うる星やつら」では、地球の支配権をかけた「鬼ごっこ」に負けた鬼族少女ラムが居候をはじめる。侵略者=駆逐の対象という構図は完全に崩壊している。
SFロボット・アニメ「マクロス」シリーズも相当に変わっている。派手な宇宙戦闘シーンも見せ場だが、何よりも型破りなのは、最後の「切り札」が、最新兵器でも、超人的なヒーローでもなく、少女アイドルの歌というところだ。劇場版「マクロスF(フロンティア)」のクライマックスでは、花火大会のような戦闘の真っ最中で、アイドル姿の二人がマイクを持って歌う。エイリアンたちは、その歌の力で人類と相互理解をはたし、敵対から共闘へと転換するのだ。アメリカ映画「エイリアン」は、無慈悲に人間を殺戮する異性物を、最後は人間が駆逐することで観客にカタルシスをもたらすが、ここでは音楽と可愛いコスチュームの少女がフィナーレを導く。作者の河森正治氏が「武器で決着させたら、ほかのアニメと何も変わらないと思っていた」(朝日、二〇一一年四月九日)と言うように、力でなく「文化力」で決着させるところにユニークな特徴がある。
この「マクロス」シリーズが三十年以上にわたって、根強い人気を獲得してきたことはとても興味深い。宮崎駿氏は、戦後の一時期、漫画の世界で少年が主人公になっていたのは(「鉄人28号」の金田正太郎少年、「鉄腕アトム」など)、戦争を遂行した大人たちの汚れたイメージを排除するためだったと語っている。日本のSFアニメの独特な進化と、それらを熱く支持する厚いファン層を生みだしてきたのは、戦後の日本社会に深く浸透、堆積し、結晶化してきたこの厭戦・嫌戦の思想ではなかったか。
日本の文化と生活には、無意識のうちに憲法の平和主義が染み込んでいる。長年にわたって培われたこの暗黙の力はけっして侮れない。
(日本平和委員会常任理事 川田忠明)