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第1282号

2008年10月30日(木曜日)発行

加賀のアトリエから
  ―― 海部 公子(あまべ きみこ)

永井 潔さん

九十二歳を迎えたばかりで永井潔さんが亡くなった。百六歳まで生きた母上を越えるのは無理としても、まだ生きて欲しかった。

  東京芸大で教えた生徒達のほかに、硲伊之助師には終生まじわった弟子がいたが、永井さんはその中でも師との関わりの濃さが傑出していた。

  一高の秀才だった永井さんが進路について迷っていた時、師は永井さんの母親から学校だけは続けるよう説得して欲しいと頼まれたという。その願いをいれて、絵は学校を卒業してからでも描けるからと説いたが、永井さんは学校をやめ、絵描きになる道を選んだ。

  その後、赤紙がきて望まない軍隊生活で銃弾を浴び、辛うじて命とりとめ帰還するも、治安維持法によって拘束されたのち、さらに二度の召集を受け、千島エトロフ島を経て札幌の司令部で敗戦を迎えている。

  東京大空襲で、東京本郷にあった自宅やアトリエから焼け出されたとき、師は世田谷区東松原にあった永井さんのご両親の住む家にころがり込んだ。食糧難で大へんな時代に親切に迎えてくれた永井家のことを、師は折りにふれ、私に語った。

  亡くなる数か月前に永井さんは『戦後文化運動・その軌跡』という四百ページ余りの本を出版。絵を描くこと以外にこれまでもたくさんの著作がある永井さんだが、私は今までそれらの文章をきちんと読んでいないような気がする。随筆や自伝は読み易いが、芸術論関係になると、とても難解なせいかもしれない。

  劇作家である娘の愛さんによると、永井さんは夜明け前の静寂のひとときを好み、思索に没入する習わしだったという。大概の人々の活動が始まる前の、清浄な時間の中で明晰に働く頭脳をさらにとぎ澄ませて、永井さんは深く思考を巡らせていたようだ。それがあの哲学的書物の数々を生み、絵画の「技術論」にも繋がったのだとあらためておもう。

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