第1228号
2007年2月28日(水曜日)発行
加賀のアトリエから〜海部公子〜
岸田今日子さん
女性の平均寿命を使い切らず、たくさんの時間をのこして今日子さんが亡くなってしまった。
長生きして欲しい!漠たる私の願いがあったかもしれない。まだまだ会う時間は残っているはずだと私は勝手に決め込んでいたらしい。
頑健そうではないが、しなやかに、たおやかに、そしてすこやかだった今日子さん。例えば、お弁当を一緒に食べたときなど、今日子さんは、ごはんつぶをのこさず、きれいな食べっぷりで感心したことがあった。
気負いなく、優雅でゆったりとしていながら、とても率直な今日子さんとの対話は楽しく、会うたびに信頼出来る足腰強い生活者だという感が濃くなった。
はじめて会ったのは一九六四年秋のパリだった。師の硲(はざま)伊之助に紹介され、リュクサンブール公園近くのレストランで昼食を共にした。メキシコなどを周ってきた今日子夫妻は少し疲れていたかもしれない。夫の中谷昇さんが「ボクはお茶漬け食いたいよ」と呟き、今日子さんはすました顔で「私はコキーユ・サンジャック」(貝のグラタン)と注文。この場面が私の記憶からいまも消えない。
今日子さんの父親、岸田国士と硲伊之助は互いを認め合い、心を許し合う親友だった。近代絵画に対するオクターブ、ミルボウの功績についても日本では数少ない理解者の一人が岸田国士だと師は書き遺している。また硲伊之助がさし絵や装訂をした岸田作品も少なくない。硲美術館には師の装訂で岸田国士長編小説集(一巻〜七巻)などがある。硲伊之助美術館開館(一九九四年)の翌年に、今日子さんのお話と朗読の会を催したこともあった。新しい風が吹き渡るような鍛練の芸の奥行きを身近に感じることが出来た。親友の吉行和子さんや今は亡き勅使河原宏さんを美術館友の会に誘ってくれるなど、今日子さんの応援はとても心強かった。
そして最近、雑誌に私の仕事を紹介してくれた。
一文には「古九谷の色彩調和を継承しながら、現代性のある絵画を色絵磁器で……」と、的確に私の仕事の核心をつかんだ言葉に驚かされた。その洞察力と、私の根にある想いが重なり合い、発酵し、熱を持ちはじめていた。心残りは、頼まれていた御飯茶碗を手渡せないままになってしまったこと。
(色絵磁器画工)