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第1211号

2006年8月30日(水曜日)発行

日本原水爆被害者団体協議会の結成と「宣言」
被爆者、嘉屋重さんと山本さん


嘉屋重さん(前列右から二人目)と山本さん(その真後ろ)

 婦人民主クラブ広島支部の会員の中にも被爆者がいます。

  中学校の美術教師で二人の子の母親でもある嘉屋重(かやしげ)順子さんは当時六歳(国民学校一年生)でした。八月六日の朝、爆心地から一・三`の叔母の家に遊びに行き、空襲警報もないのに飛行機の爆音が聞こえたので窓から身を乗り出したところへ原爆の閃光を浴びました。顔、首、腕を熱線で焼かれ、顔の火傷はひどく、右目からはウミが長く出つづけていましたが、失明はせず、顔もきれいになおりました。

  嘉屋重さんの家族は当時父母と八人きょうだいの十人、全員被爆しました。姉二人は被爆死し、父と兄は入市被爆者、戦後生まれた妹は被爆二世です。嘉屋重さんは婦民の代表として一九八八年、第三回国連軍縮特別総会に核兵器廃絶を要請に渡米したほか、個人的にもたびたびアメリカの大学などに招かれて被爆の実相を語りつづけています。

  山本美都子さんは入市被爆者。結婚して広島市郊外に住んでおり、三人の子を持つ二十五歳の母親でした。実家は爆心地から五百b、父と次姉は被爆死。兄は戦死、中国から引き揚げて来た長姉は病死。無一物になった初老の母のもとに、気力を失った兄嫁とその子四人、長姉の子四人、次姉の子一人と、十二歳を頭に九人の子が残されました。山本さんは夫と義父母に自分の三人の子を託し、心を鬼にして離婚、九人の子の養育に奮闘しました。一九六四年から発行の学習グループ「山下会」の被爆体験誌『あさ』に山本さんも毎年被爆の記録を書きつづけ一九七七年、「山下会」と『あさ』はアリス・ハーズ夫人記念平和基金を受賞。原水爆禁止世界大会では山本さんも被爆の証言者として語りつづけています。

  第一回原水爆禁止世界大会の開催に励まされ、翌一九五六年八月十日、日本原水爆被害者団体協議会が結成され、被爆者の「宣言」が「世界への挨拶」として発表されました。

  「原爆から十一年あまりたった今になって、私たちは、はじめてこのように全国から集まることができました。(略)私たちがこのように立ち上がりの勇気を得ましたのは、全く昨年八月の世界大会のたまものであります。(略)かくて私たちは自らを救うと共に、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります。(略)私たちの受難と復活が新しい原子力時代に人類の生命と幸福を守るとりでとして役立ちますならば、私たちは心から『生きていてよかった』と喜ぶことができるでしょう。(後略)」

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