第1209号
2006年7月30日(日曜日)発行
婦民と私
たたかい続け うたい続けて 仙台支部 堤 智子さん
日本国民救援会宮城県本部の事務局長で歌人の堤智子さん、というより不当解雇撤回闘争で十三年間がんばった聖ドミニコ学院の清水智子先生として記憶されているかもしれません。「あの時は婦民新聞にも載せていただいたし婦民の皆さんには大へんおせわになりました」
一九七四年から八七年までの闘いは裁判所の勧告を受けて和解が成立し終結しましたが、教壇復帰はかないませんでした。初の歌集『真紅のアマリリス』には当時の歌も載っています。
「こがらしのこの街角にわれ立ちて教壇に戻せと訴えし日々あり」
一九八〇年に郷里山形の堤和志さんと結婚しましたが「しばらく別居結婚で週末は車で仙台から米沢に通っていました」 闘いの中で生み育てた二人の子どもも成人して仙台を離れました。
「ひたすらに教えし日々のわれにあり娘と夜を円周率に挑む」
数学と理科の先生だった智子さんは「やり残したことがあるようで数学の学習塾でも開きたいと思っていたのですが…」二〇〇一年に「北稜クリニック筋弛緩剤点滴事件」で当時二十九歳の守(もり)大助さんが逮捕され、その冤罪を晴らすために奮闘することになり、「事件解決まで数学塾はおあずけです」 この事件は、証拠なし、動機なし、本人の自白と警察による疑問の多い鑑定(血清や点滴ボトル等)だけですが、殺人と殺人未遂で一審・二審とも無期懲役の判決でした。
「黄一色にいちょう散り敷く裁判所の庭に幾度ぞ立つ無実叫ぶ母は」「無罪判決のみ信じ来し君の恋人の崩れる身体をただ抱きしめる」
「一九八八年に、当時全国私立学校教職員連合委員長だった歌人の碓田登先生に勧められて新日本歌人協会に入会しました。歌もたたかいで、今のこの時代に詠まなければならないものがあるはずと本格的に短歌に向き合うようになりました」
「五〇〇〇人 九条守れと集い来し杜の都の晩秋熱く」「かかる時代に立ち向かいたぎりくるわが思いひたすら詠まん生ある限り」
「今日は婦民の旗を持って、王城寺原演習場での米軍の実弾砲撃演習に反対する抗議集会に行って来たんですよ」
「米軍の演習やめよとデモのゆく道に匂える山百合の花」