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第1208号

2006年7月20日(木曜日)発行

婦人民主クラブの60年(23)
世界母親大会代表派遣に千六百万円集めきる 第一回日本母親大会の涙の訴え

平塚らいてうほか五人の原水爆禁止の訴えは、一九五四年十一月の国際民主婦人連盟執行局会議で満場一致で支持され、翌一九五五年に世界母親大会を開くことになりました。この大会に日本からも代表を送ろうと日本母親大会の開催を決め、日本母親大会準備のための実行委員会に六十余団体が結集しました。

婦人民主クラブはその中心となって他団体との横のつながりを強め、全国組織として地域での母親集会の開催にも精力的に取り組みました。そしてこうした動きを反映させたいと、婦民の第十回大会を日本母親大会直前の六月五日と六日に衆議院第二議員会館で開催。日本母親大会は六月七、八、九日、豊島公会堂と日本青年館で開かれ、全国から二千人以上が参加しました。十三万本の手ぬぐい、一万本の扇子を売り、広告をとり、一円、二円のカンパを集めて上京した各地の母親たちでした。

戦後十年たっていましたが、戦争の傷跡は深く「涙の母親大会」といわれました。失業・貧困・飢餓は深刻で、自衛隊の残飯を買って食べている(北海道)、本国から妻が来日するので米軍人がメイドの日本女性を生き埋めにした(沖縄)、十人家族でウドン二束(炭鉱)、小学校を出ると女の子を前借りで売る(漁村)、牛馬に農閑期はあっても女にはない(農村)、広島・長崎の被爆者等々、涙、涙の発言でした。前年九月に亡くなった第五福竜丸の久保山愛吉さんの妻すずさんも参加、原水爆禁止を訴えました。明るい話題がほしいということで無痛分娩母の会の会長、富永和重さん(前婦民会長)が無痛分娩第一号としての体験を発表。「原爆を許すまじ」の全員合唱で閉会しました。その模様はNHKラジオで全国に放送されました。

世界母親大会への代表派遣は日本母親大会準備の中で取り組まれ、河崎なつさん(日本子どもを守る会常任理事)を団長に、各地から十四人が選ばれました。労働者、教員、科学者、被爆者、農民、炭鉱婦、未亡人、議員、日雇いなど多彩な顔ぶれで、婦民の会員からは大阪代表で藤田寿さん、京都代表で中井あいさんが十四人の中に加わりました。

日本母親大会で財政部から十四人の派遣費用一千六百万円を生み出そうとの訴えがあり、あまりの巨額にぼうぜんとしながらも、各地の母親たちはカンパ集めに奮闘し、わずか一か月で集めきったのでした。

世界母親大会は七月七日から十日までスイスのローザンヌで開かれ、六十八か国から一千六十人の母親が集まりました。


第1回日本母親大会(1955年6月7日・豊島公会堂)

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