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第1206号

2006年6月30日(土曜日)発行

加賀のアトリエから−海部公子(あまべ きみこ)
屏風ヶ浦のこと

朝ごはんを食べないで登校する子どもが増えているという。親がつくってやらないのはどうかと思うなど、ダメ親拡大説のかげに子どもの心が置き去りにされているような表現に出合うとついタメイキが出てしまう。

  親がつくってやらないのも、つくってやれないのも種々理由があるだろう。それはそれで別のこととして、ここで私がいいたいのは、たとえ五、六歳にせよ、教えればごはんづくりぐらい子どもは出来るようになるということだ。自分の食事だけでなく、親の分も弟たちの分もちゃんと作って食べさせることが出来る。

  昭和十九年からの五年間は私が五歳から十歳までのことになるが、神奈川県屏風ヶ浦という風光のよい場所に私たち一家は移り住んだ。その年八月に五歳下の弟が生まれたが、私には一つ違いの弟がいた。

  ときは空襲が激しくなった戦争中だから、警戒警報だ、灯火管制だと不穏でもあったが、私と年子の弟はよく遊んだり、いたずらもさかんで、他家の畑のものを失敬してこっぴどく叱られたこともあった。それでも大した悲壮感もなかったのは両親がいたせいだろう。その両親にはいつどうなるかわからない、という危機感からか、このころから子どもへの躾がより厳しくなった。「獅子は自分の子を谷底へつき落とし、這い上がってきた子だけを育てる」と父母が話しているのを聞いた覚えがある。

  早朝の起床、朝食前に家の内外の掃除や鶏小屋の世話など、ただメシ食いの穀つぶしにさせてはならじという親の気魄も感じられた。生来体が弱い上に産後体調をくずし、生まれた弟を私に負わせてよく寝込んだ母は、そのころ家事を手伝ってくれていた人に頼んで私に食事づくりを覚えさせた。昭和二十四年、東京に薬局を開き、一家で上京して薬剤師の母は多忙になるが、屏風ヶ浦で訓練を積んだ私が一家の食事づくりの責任を負いながら学校に通っていた。その頃の思い出の中には、必要とされる存在になった確かな自分への充実感こそあれ、マイナスイメージは何もない。

  今の世は電化で家事は楽になり、子どもは個室を与えられたりして、生活から除外され、納得していないなれ合いの、その場しのぎの交流に疎外感を深めているのかもしれない。

(色絵磁器画工)

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