第1198号
2006年3月30日(木曜日)発行
婦人民主クラブ創立60周年記念のつどい
わたしたちは平和を手離さない
暖かい春の陽ざしに恵まれた3月19日、婦人民主クラブでは、「わたしたちは平和を手離さない」の合言葉を高く掲げて、「婦人民主クラブ創立60周年記念のつどい」を開催しました。遠く北海道や九州、東北、関西などから駆けつけた会員も交えて、会場となった東京・武蔵野公会堂パープルホールには晴れやかな顔がそろい、たゆみなく歩み続けた60年の歴史を共に祝いました。
講演する佐々木愛さん(3月19日、武蔵野公会堂)
憲法を守る仲間の輪をひろげて
61年へ新たな第一歩を
「つどい」は紺野君子さん(藤沢支部)の司会で進められました。
一戸葉子さん
主催者あいさつに立った会長の一戸葉子さんは、次のように語りました。
「婦人民主クラブは、敗戦まもない一九四六年三月十六日に創立されました。敗戦により戦争の真実を知った女性たちは婦人民主クラブに希望を託しました。それから六十年、日本はいくらかでも進歩したでしょうか。昨今の増税、社会保障の後退など、私たちの暮らしはますます困難になっています。
でもつい先日の岩国の住民投票では、艦載機受け入れ反対の票が圧倒的多数をしめました。また一昨年六月に発足した『九条の会』に呼応して、現在四千を超す『九条の会』が全国に生まれています。平和と民主主義は人々の中に、このように深く根をはってきています。『わたしたちは平和を手離さない』、明日から婦民の六十一年へ、ご一緒にふみ出していきましょう」
堀江ゆりさん
ついで堀江ゆりさん(日本婦人団体連合会会長)が来賓あいさつ。「今年の国際女性デーには海外からたくさんのメッセージをいただきました。どのメッセージも九条の大切さにふれられていて大へん力強い思いをしました。私は『婦人の全能力を発揮し日本の完全独立と世界の平和のために力をつくします』という婦民の綱領が気に入っています。私たちはまだまだ全能力を発揮しきれていないのではないでしょうか。全力を出し切って平和への歩みをすすめましょう」とのべました。
西川かずこさん(後)今村文美さん
この日に向け新しく制作されたビデオ「婦人民主クラブの60年」の上映。前進座・西川かずこさん、今村文美さんの舞踊「民謡三題」は、舞台に春を呼ぶあでやかさで、会場から大きな拍手がおくられました。
休憩のあとは佐々木愛さん(劇団文化座)が「劇場のそとで―母の想いを受け継いで、今」と題して講演。自身の成長に重ねて、母・鈴木光枝さんへの想いを語りました。閉会のあいさつは小牧裕子副会長でした。
母の想いを受け継いで、今〜講演要旨 佐 々 木 愛 さん(劇団文化座)〜
佐々木愛さん
文化座が旗上げをしたのは昭和十七(一九四二)年、私はその翌年、一九四三年に生まれました。
その後、文化座は一九四五年六月、旧満州(中国東北部)へ渡りました。その頃、日本国内では、だんだんとお芝居ができなくなってきていたのです。文化座の日本移動演劇連盟としての三つの選択肢は、沖縄か広島か満州でした。
満州に渡った文化座は、ソ満国境ぞいに公演して、瀋陽へ夜行で移動したその日にソ連軍が進入してきました。たった一日の差で命を拾ったわけです。母たち女優六人は丸坊主になり、男装で旧長春に戻って一年間抑留生活をしました。
私はといえば、三か月の予定で両親が満州へ行きましたので、おばの家に預けられていました。
両親が満州から引き揚げてきたのは、私が三歳半になった時でした。そして小学校に入る時に、両親と一緒に住むことができるようになりました。その時、母がいったことは「女もこれからは手に職をつけ、自分と自分の子どもを守るだけの経済力を身につけなさい」ということでした。
二十四歳の時、父・佐佐木隆をがんで亡くしました。父は本当に差別の嫌いな人でした。人を差別してはいけないという目線で私が人と接することができるのも父の教育のおかげです。
母は父を亡くしてから、がぜん主体的に生きることに目ざめました。自分が文化座を引っ張っていかなければと思ったのでしょうね。母が櫛田ふきさん(元婦民委員長)と出会ったのは、その頃のことではないかと思います。お芝居のチケットを持って櫛田さんの所へ行くと、私についていらっしゃいといって、いろんな所を紹介して一緒に歩いてくださったそうです。
母は神田の生まれ、チャキチャキの江戸っ子で何不自由なく育ちました。その母が父と出会い、戦争を体験し、また櫛田さんにも出会って、だんだんと変わっていったのだと思います。平塚らいてうさんが、地元の世田ヶ谷をデモ行進した時の写真の後ろの方に母が写っているんですよね。
私の初舞台は一九六一年「荷車の歌」でした。その後主なものだけでも「土」「サンダカン八番娼館」「越後つついし親不知」など次々に演じてきましたが「おりき」は「これはできない」と思いました。人間としてのまん中の太さ、生命力の強さが違うというか、これは母のもの、「お墓まで持っていっていただきます」というと、母はそれは機嫌がよかったです。
母が最後のライフワークといって演じていた「あの人は帰って来なかった」という朗読劇、戦争未亡人の話ですが、これを私が引きつごうとした時には、「あなた、これまで取り上げるの」といって怒ったものでしたが――。
この六月には、「鈴が通る」という「おりき」と同じ三好十郎先生の作品を再演します。息子の戦死の公報を受け取った後に、シベリアからの息子のハガキが届き、毎月、決まった日に、村役場へ息子を返してほしいと通う母親。戦争の悲劇を芝居を通して伝えていくこと、それが「満州」を体験した母の想いを受けつぐことなのだと思います。
会場をいっぱいにうめた参加者
ロゴマークが決まる
創立六十周年を記念して募集した婦人民主クラブロゴマークの優秀賞作品が、応募二十八点中から厳正な審査の結果、秋葉尚子さん(足立支部)の作品に決まったことが、櫻井幸子事務局長から発表されました。婦人民主クラブの頭文字FMCを組み合わせた図柄です。審査に当たっては、あかつき印刷(株)デザイン部の協力をいただきました。
婦人民主クラブの60年
― 平和を手離さない決意をビデオに ―
婦人民主クラブ創立の大会(1946年3月16日)
ビデオ「婦人民主クラブの六十年 わたしたちは平和を手離さない」が完成しました。十七分。
婦人民主クラブが創設されたのは敗戦の翌年、一九四六年三月十六日。タイトルの「わたしたちは平和を手離さない」は、創立の呼びかけ人の一人、宮本百合子さんが一九四八年八月十五日に向けて、婦人民主新聞に寄せた「論壇」欄の表題です。当時、日米政府は早くも再軍備の道を進み始めていたからです。婦人民主クラブの六十年は、女性たちが平和と民主主義、くらしと人権を守って行動してきた歳月でした。その重みと波乱の歴史が、九人の会員の発言も含めて感動的に語られています。
今年は日本国憲法公布六十年、憲法の平和と主権在民の理念は、婦人民主クラブの創立の精神でもあることを納得させてくれます。
☆製作=婦人民主クラブ片倉比佐子・塩谷満枝・櫻井幸子 撮影=西島房宏・南文憲 編集=西野保 ナレーション=橘貴美子 音楽=黒坂黒太郎・矢口周美 プロデュース=文エンタープライズ
婦人民主クラブ創立60周年祝賀レセプション
多彩なプログラムで華やかに
婦民創立六十周年の祝賀レセプションは、記念のつどいに引き続き、三月十九日夜、東京・吉祥寺の東急インで開かれ、百五十名近い方が出席されました。司会は平野節子さん(広島支部)と加集静子さん(埼玉支部)。
オープニングは渡部玲子さんのヴァイオリン演奏、ピアノ伴奏は柳瀬洋子さん。一戸葉子会長が主催者あいさつ。
畑田重夫さん
ついで来賓あいさつに立った畑田重夫さん(国際政治学者)は、「戦後のあらゆる闘いに立ち会ってきたが、いつもそこには婦民会員の姿があった」と語り、今年の年賀状の「日常生活すべてに憲法感覚が必要な時代になってきました」という女性からの一言をあげ、ねばり強く憲法改悪を許さない闘いをと呼びかけました。
山岡靖子さんと大野文博さん(音楽センター)
津上英子さん(元婦民事務局長)の発声で乾杯の後は、歓談と「フラハラウ マウナロア 田中」の七人が踊るフラダンス、歌とオートハープを矢口周美さん(都庁支部)、そして渡部さんの再度の登場でヴァイオリン演奏と続きました。
祝辞をいただいたのは次の方々でした。堀江ゆりさん(婦団連会長)、木村康子さん(第52回日本母親大会実行委員長)、田島一さん(日本民主主義文学会)、加藤直之さん(あかつき印刷(株))、石井郁子さん(日本共産党衆院議員)、柴田真佐子さん(全労連女性部部長)、高田公子さん(新日本婦人の会会長)、倉内節子さん(自由法曹団女性部部長)、三宅良子さん(DCI日本支部副代表)、大原穣子さん(ドラマの方言指導)、田中美智子さん(元衆院議員)、金持伸子さん(日本福祉大学名誉教授)、近藤とし子さん((社)栄養改善普及会会長)。
婦人民主クラブの歌「風はそれを知らなくても」(福中都生子作詞、木下航二作曲)を山岡靖子さん(広島支部)の指導、加集希代子さん(ピアニスト)の伴奏で全員合唱。塩谷満枝副会長のお礼の言葉で会を閉じました。
「婦人民主クラブの歌」を全員合唱
こんにちは
「婦民60年のビデオのナレーター 橘 貴美子さん」
ナレーター・司会者
橘 貴美子さん
「女性の方たちが六十年も闘って来られたことに、すごくありがたいという感じをもちました」
橘貴美子さん、婦人民主クラブの六十年の歩みをたどるビデオ「わたしたちは平和を手離さない」の「声」を担当。もちろん婦民とは初めての出会いです。どんな感想をとの問いかけに、冒頭の答が返ってきました。
「私が仕事を始めた当時は、まだまだ結婚か就職かの選択を迫られた時代でした。私たちの前を歩んだ方々が、道を切り拓いてくださったのだと思いました」
橘さんは、兵庫県の西宮市に生まれ、小学校五年生で、お父さんの転勤のため東京へ。
「西宮時代には、宿題など全くなくて、のびのび過ごしていたんですよ。ところが東京へ来てみてびっくりしました。宿題はいっぱい、みんなよく勉強するので」
大学は共立女子大学文芸学部。マスコミ系への就職希望者が多い学部です。ところが当時、女子大生の就職は「どしゃぶり」といわれた時代。結局、普通の会社に就職しました。
三年数か月経った頃から、電通の中にあるテレビタレントを養成する所に通い、音声表現の勉強をはじめました。ここで勉強したことが、会社を辞め、音声表現者として生きる道につながりました。その後、順調に仕事に恵まれて、地方局のレギュラーやラジオ番組などをこなしていきます。
「私は自分のことを雑草だと思っています。希望の道へ進めないことがあっても、また私のように脇道から入っていくこともできる、あきらめることはないんですね」
橘さんの出演はラジオ、テレビ、ナレーション、吹き替えなど多岐にわたります。ラジオではNHK「クイズおもしろ講座」で三年間、進行役を務めました。
橘さんは「ホームヘルパー二級」という資格をもっています。お父さんが脳梗塞で倒れた時に取ったもの。一時は仕事をやめて介護に専念することも考えました。今も介護問題には関心をもっています。
「声にはその人の人間性が全部出てしまいます。だから婦人民主クラブのような歴史の厚みのある団体のナレーターが務まるかどうか不安でした。でも後に残る仕事をさせていただいて感謝しております」
七味
「婦民60年」
婦人民主クラブ創立六十周年記念のつどいで上映するビデオ「婦人民主クラブの六十年―わたしたちは平和を手離さない」が完成しました。三月十九日のつどいの三日前、まさに創立記念日のその日、十六日の夜に最終チェックを終えました。
住井すゑ百歳の人間宣言」を制作した文エンタープライズの協力で、撮影、編集、音楽、ナレーターなどのプロは、その道の達人を紹介してもらいました。シナリオは片倉比佐子さん(都庁支部・女性史研究者)が六十年の歴史を十五分で語れるよう何度も書き直してまとめました。
私はダンボール箱に十数個の写真とネガの中から百二十六枚の写真を選び出し、六十年の長さと変化を痛感させられました。敗戦後の廃墟の中から立ち上がった先輩たちは、みすぼらしい着物にもんぺ、赤ん坊をおぶったねんねこ姿です。そのかっこうのままGHQ(連合国軍総司令部)に全面講和の要請に行ったり、占領下の弾圧を恐れずデモや街頭署名に立ったりしています。
もんぺからスカートへ、スカートもロングからミニになり、今では夏でも活動的なスラックスが主流になりました。運動の範囲も広くなり、平和や女性の権利の問題では国際連帯も盛んです。
私たちが何気なく年代順に並べた写真を見て編集者にいわれました。「核巡航ミサイル・トマホーク配備反対の次に風呂屋でバザーとは、ガクッときますね」。そうです。婦民の六十年は女の要求の百貨店≠フ解決めざす活動でした。