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第1203号

2006年5月30日(火曜日)発行

婦民と私
婦民とピアノと中国への思いと町田支部待場 百合子さん

婦人民主クラブ創立六十周年「町田記念のつどい」では、待場百合子さんのピアノ演奏が話題でした。八十歳からの手習いとか。

  「小さい時から音楽が好きだったの」

  八十歳からとはいっても子ども時代、手ほどきを受けた経験がありました。

  「当時、ピアノのある家なんかありませんでしたから」最初はオルガン、次に子ども用のバイオリンを買ってもらいました。そうこうするうちに家にピアノが。

  「妹たちと一緒に練習曲から始めました。今も頭の中には音も楽譜もあるんですけれど」

  待場さんは旧満州(中国東北部)の生まれ。妹二人、弟一人の長女、満州国の首都だった新京(現長春)に住んでいました。待田さんが日本の支配する植民地の差別の現実を知るのは、いったん帰国して神戸女学院に学んだ時のことでした。

  「ヨーロッパ人の先生でしたが、中国人も朝鮮の人も日本人も、みんな平等に呼びかけは『ミス』でした。目が覚める思いでした」

  残念な思い出もあります。戦争末期の繰上げ卒業で、企画していたシェークスピア劇がふいになったこと。「私は男役だったんですよ」演目は 『じゃじゃ馬ならし』 。今も英語が堪能です。

  結婚して長男が二歳の時、再び満州へ。夫の出征、敗戦、そして難民の暮らしへ。待場さんは何度も「棄民」という言葉を口にしました。当時、国・共内戦のはざまにあってなめた辛酸は筆舌につくし難いものでした。

  その中でうれしいことが一つありました。「婦人民主新聞」に掲載された宮本百合子の新生中華人民共和国を祝う「宋慶齢への手紙」(一九五〇年二月)に出会ったことです。「婦民とのおつき合いはその時からです。絶対に忘れません」

  帰国できたのは一九五三年。翌五四年に東北薬科大学教授として赴任する夫君と共に仙台へ。東京・町田市に移るまで四十数年、仙台に住んで、主に日中友好協会宮城県本部理事として活躍。中国語の実力を駆使して残留孤児の援助にも力を尽くしました。太極拳の腕前も中国の専門家の折り紙つきです。

  婦民仙台支部に入会したのは一九八一年。九七年町田へ。今は婦民ひとすじですが、中国への思いも一入なのです。

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